これは僕が先輩方からお聞きしたお話です。思い出しながらタイプしていきますね。
福岡は戦後米国の駐屯基地が置かれていたため極東放送FENが放送されていたんですね。なので比較的アメリカのヒットチャートに接する機会が多かったんです。基地が有ったのでダンスホールとかも有った様で生バンドの演奏が行われ、他の都市よりもミュージックシティの色が濃かった様です。
1960年代のそんな折、あるラジオ局にロックが大好きな青年が入社したそうです。彼はどこからかアメリカにはビルボード誌とゆうヒット曲の売り上げ順が掲載される週刊誌がある事を知ります。アメリカのヒットチャートはそのまま最新の音楽の動向を表します。彼はなんとかこのビルボードを下敷きにした最新の音楽を伝えるラジオ番組を作りたいと思うようになりました。
まずはそのビルボード誌を手に入れたい。彼は福岡の中心街天神にある一番大きな本屋さんを尋ねます。当時もちろんビルボード誌は日本では売られていません。結果ビルボード誌を手にするにはアメリカから毎週輸入するしかないとなり親切な本屋さんの手配での定期購読が始まります。その購入金額は彼の毎月の給料がきれいに消えていく金額だったといいます。
それでも彼は番組をスタートするべく企画をたて見事に番組は放送開始となります。スタートした番組では企画選曲おしゃべりまで彼がこなします。そしてロック好きの若者を魅了し福岡のロックシーンのベースを更に作っていきます。
ビルボードの番組をスタートさせた青年以外にも音楽をこよなく愛するラジオのディレクターが他局も含めこの福岡にはいました。質の良い音楽番組が福岡に殖えていきます。アマチュアミュージシャンにもラジオの門戸が開かれます。ディレクターがデモテープを聴いて選別。若者たちが歌う声がラジオから流れ出します。
いつしかプロのミュージシャンを目指すものは相談役に音楽番組のディレクターを選ぶようになります。みなさんがよくご存知の偉大なシンガーソングライターもあのバンドもデモテープを持ってラジオ局に行きます。ディレクター達は必ず明日のスターを目指す彼らの良いところを見つけ励まします。プロとしてレコードデビューを果たすミュージシャンが増えていきます。でも皆がすぐに成果を出せる訳ではありません。そんな時ラジオのディレクター達は皆こう言いました。
「お前たちは才能の塊だ、絶対に売れる。もし売れなかったらそれはレコード会社が悪い。」
その声を聞いてミュージシャンはまた頑張ります。レコード会社の立場は福岡では当時かなり大変でした。福岡の音楽シーンをリードしていたのはラジオ局のディレクターだったのです。
1980年代の福岡からは多くのロックバンドが旅立ちました。明太ロックなんて言葉も生まれ福岡はミュージックシティとして注目されました。当時のエピソードですが、天神を歩いている僕を見かけたあるディレクターは「時間ある? コメント録らせて」とニコッと笑いこっちもこっちで「いいっすよ」となり、いきなり番組収録なんて事もざらにありました。
時は経ち福岡から日本の音楽シーンに多大に影響を与えたラジオのディレクターも会社員で定年をむかえていきます。1998年にはある功労者の為に大物ミュージシャン達が福岡に集結して伝説のライブが行われました。凄い面子です。当時僕はレコード会社のディレクターでしたがルースターズの頃のお礼もかねてイベントにお邪魔しましたが、楽屋を含めバックヤードにレコード会社の人は見当たりませんでした。入れんよね。
ビルボード誌を下敷きに作られた番組は、
KBCラジオ『今週のポピュラーベスト10』
青年は松井伸一さん。
天神でナンパしてきたのは、
RKBラジオの井上悟さん。
『伝説Live』は1998年2月26日から3月1日の4日間、還暦を迎えたKBCラジオ岸川均さんの為に開催。
主な出演者は山下達郎、浜田省吾、スターダスト・レビュー、甲斐バンド、海援隊、南こうせつ、伊勢正三、イルカ、坂崎幸之助、さだまさし、チューリップ、ARB、サンハウス等。
2017.11.06
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