いわゆるインディーズ・ブームの頃,マイナー系のレコード会社はよくコンピレーション・アルバムを制作していた.『NG various collektiv from Trans Records』,『NG live』など,未だに何枚も所有している.『子どもたちのCity』はキャプテンやナゴム所属のミュージシャンを集めたそんなコンピの一枚で,レコードの帯に「子どもたちのCityツアー 昭和62年(1987年)2月から3月中旬」とあるから,録音だけではなく,結構な頻度で実際に一緒に演奏していたと思う. 筋少のライブに足しげく通っていた僕は,1988年2月22日に「横浜7th AVENUE」というライブハウスで行われた「筋肉メトロかぶり」で「ばちかぶり」と遭遇する.筋肉少女帯,メトロファルス,ばちかぶりのジョイント・コンサートである.その後もヴォーカルの田口トモロヲが主演した『鉄男』のプレミア上映会(「プレミア☆メタル☆ナイト」)が「INK STICK芝浦FACTORY」で開催され,やはりそこでもばちかぶりの他,大槻ケンジ(筋少),伊藤与太郎(メトロファルス),ケラ,泯比沙子なんかが一緒にライブをしている. これらの半券やフライヤーが筋少ではなくて,ばちかぶりの『白人黒人黄色人種』のLPから出てきたから,僕の関心はすでにばちかぶりにシフトしていたのだろう.「INK STICK六本木CLUB」,「渋谷エッグマン」など,単独ライブにもよく通った. そんな高校時代の熱狂から十数年後,西荻の或るバーで元ハードコアバンドの**さんとJAGATARAの話で盛り上がっているうちに,うっかり「ばちかぶりも〜」と口にして怒鳴られたことがある.あの当時でさえ,「白人黒人にゃ敵・わ・な・い」と(卑屈に?)歌い,それを実践するんぢゃしょうがないなんて,確かに僕の周りでの評判もいま一歩. 僕が聞き始めたのは,ばちかぶりが初期の「和製」あるいは日本語パンクからJazz Funkに移行した時期で,その後トモロヲさんはハウスを意識して自嘲気味に「音楽芸者」なんて言い始めるのだけれど,この和製ジャズ・ファンクが僕は好きだった.「パンク創立10年〜何が変わった?」という素直すぎる言葉と「熱いトタンの屋根の上に禁じられたる亜鉛が・・・」なんていう意味不明な歌詞の並列に魅力を感じていた. 当時筋少と掛け持ちでギターを弾いていた(関口)ヒロシさんのフレーズが好きだったし,これだけ節操なく音楽性を変えてきたのに,どんな曲でも完璧にこなすドラムの(木原)ケンジロさんに憧れていた.ケンジロさんは当時の僕のアイドルで,ジャケット裏面の写真をコピーして美容院でこういう髪型にしてと頼んで絶句されたこともあった.随分後に付き合った彼女がケンジロさんと同級生だったことが分かって依然興奮したし,未だに僕は「第七倉庫」や「亜民」を聴くと,独特なドラムの叩き方ばかりに耳を奪われる.
2016.05.26
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YouTube / Mon Ster